織田信長の軌跡~VS斎藤氏~

前回までの記事はこちら

前回桶狭間の戦いにて今川義元を討ち、全国に織田信長の名を轟かせたところまではお話しいたしました。

今回は元々同盟関係にあった斎藤氏との戦いを綴っていきます。

 

斎藤氏との関係悪化

1556年の4月、信長の義父・斎藤道三が嫡男の斎藤義龍のクーデター(長良川の戦い)で亡くなった後、元々友好関係にあった両家の関係はとても険悪なものとなっていて小競り合いも多くなっていました。

しかし、1561年に斎藤義龍が死去、嫡男の斎藤龍興が後継となると、信長は斎藤氏の本拠地である美濃国(現在の岐阜県)へと出兵し勝利します(森部の戦い)。

さらに近江(現在の滋賀県)の大名、浅井長政と同盟を組み斎藤氏への牽制を強化いたしました。

浅井家との同盟の際、信長は妹・お市を浅井長政に嫁入りさせました。

お市といえば現在でも戦国一の美女と名高く、知っている方も大勢いらっしゃるのではないでしょうか?

この方も信長に負けず劣らずの波乱万丈でドラマチックな生涯を送っていたのでいつか記事にしたいと思います!

 

将軍の死去

1565年5月、京を中心に絶大な権力を持っていた三好氏の三好義継・三好三人衆・松永久通らが、時の室町幕府将軍・足利義輝に対しクーデターを起こし、殺害しました(永禄の変)。

足利義輝の弟の足利義昭は、松永久秀により保護され、近江国の和田、矢島を拠点として全国の諸大名に上洛への協力を求めました。

信長も同年の12月には細川藤孝に書状を送り、足利義昭の上洛に協力することを約束しました。

上洛には、信長の協力が必要とされているため、義昭は障害となる信長と美濃斉藤氏との停戦を実現させました。

 

ところが、1566年8月、信長は領国の秩序の維持を優先し、斉藤氏との再戦いたしますが結果は敗退。

義昭は矢島から若狭国(現在の福井県)まで撤退を余儀なくされ、信長も、河野島の戦いで斎藤氏に大敗してしまいました。

信長は名誉回復のため、斉藤氏を排除し義昭の上洛を実現させることを目指します

美濃中部・西部の有力な人間を味方につけた、信長は1567年、斎藤龍興を伊勢国(現在の三重県)長島に敗走させ、美濃国を平定いたしました。

これにより信長は長年の斎藤氏との確執にとりあえずの終止符を打ちました。

 

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